昭和四十八年三月二日


御理解第七十九節、「商売をするなら、買場、売場と云うて、元を仕込む所と、売先とを大事にせよ」


私は、この七十九節を今日は、商売と、特別商売人に対するところの御教と、ゆうような事ではなくて、御教の偉大さとでも申しましょうか、、もう限りが無い大きさ、とでも申しましょうか、を、こゝから感じるのです。
 目先は二銭損のようでも、そうすれば数が売れるから、矢張りその方が徳じゃと、例えば、理屈から云えば、高く売って方が儲かるようにあるけれども、そこは理屈の世界ではないとゆう事、金光大神がこゝで説こうとしておられる事はもう、この事だと、ですからこれは、商売人に限った事ではない。
 もう本当に、昨日の御理解で云うなら、尽きぬおかげを話に残しておくと仰る。 もう尽きぬ、底が知れない、限りが無い、それからのおかげとゆうものは、もう、2と2をたせば4になるとゆうものではなくてです、もう、それから先のおかげとゆうものは、もう分からない。
 例えば最近は、コマ-シャル時代と云うですか、宣伝時代と、こう申します、ですから色々な有名商品なんかの、有名ではなくても宣伝が上手であれば、良く売れるという時代。
 その、よく売れるけれども、宣伝費を少し惜しんだら、もう、その売れ行きとゆうものは、ガタッと減るとゆう事です、だから宣伝にはいくらかけても良い、と、まあこれが常識なんです。
 ところが教祖金光大神は、そうゆう宣伝をせろと仰るのじゃないまあ、云うならば人が宣伝をしてくれ、云うならば、神様が宣伝をして下さるとゆう行き方ですから、宣伝をやめるとか、するとか、いった事は関係が無い、もう限りが無い。
 問題はこゝに、体はちびるもんではないから、働くが良いとか、売場、買場を大事にせよとか、とゆう事はお道の信心の、まあ真髄とでも申しましょうか、例えばこゝは商売人としてありますから、仕入をする所と、言わば、仕入先と売場とゆうものを、大事にせろと、もう当たり前のような事であってヾす、もう、その深さ、広さ同時にそんなら、ちびるもんではないから体を使えと、ゆうように仰っておられる。
 もう実意丁寧神信心を、こゝんところに結集された言葉だと言っても良い。 いわゆる金光大神の世界は、もう、理屈の世界ではなくてです、もう限りない、いわゆる、しかも底の無い世界だとゆう事。 もう三年にもなりましょうか、私が御承知のように沢山お水を頂きます、サイダ-を半ダ-ス位は一辺に、アッとゆう間に飲んでしまう位、よく頂きました。
 そうゆうある時に神様から、サイダ-を飲むなと頂いた。
かわりにビ-ルを飲めと頂いた。 今にして、何か意味が分らん、どうゆう事か、どうゆう訳でサイダ-飲んだら、いけんのじゃろうか、あれはサイダ-は糖分が入っとるからじゃろうか、ところがそんなら、みかんジュ-スは、糖分が入っとるのだけれども、ジュ-ス類はお許しを頂く、只サイダ-だけがいけん、サイダ-だけを飲むなとおっしゃる、だからサイダ-を飲むかわりに、ビ-ルを飲めと、ビ-ルもまあ五、六本位迄ならよかろう、と、とてもまだ そんなに飲んだ事はない、又 飲めもしません、まあせいぜい飲んでビ-ル一本、まあ、ジュ-スは沢山頂きます。
 けれどもね、私は愈限りの無い、底の無い偉大さと云うか、限りの無い、無尽蔵に受けてゆかれる信心と云うか、もう、理屈じゃないという事です。
 私は最近金光大神の、教祖様の偉大さと云うか、もう私は本当に私が何か頭がよくてね、何か詩でも歌でも作りきると云うなら、金光大神讃歌とゆうものを、作らせて頂きたいと思います。
 金光大神を限りなく讃える言葉を、何かこう考え出して作って、皆さんと一緒に、金光大神を讃えたい、もう教祖様のおかげでと云う、そうゆう意味じゃないです、今日言おうとしておるのは、…… もうそれこそ、お釈迦さんであろうがキリストであろうが、言うなら足元にも及ばないものを、教祖金光大神は持っておられるとゆう事です。
 もう足元にでもと言うたら、いかにも、こう針小棒大のようですけれども、真実そうなんです、私は、最近統一教の方達が来てからあの方達の信心を、聞かせて頂くたんびに、もう愈教祖金光大神の信心の偉大さとゆうものをね、痛感しております。
 例えば、一番、今日それを感ずる事はね、第一、罪とか罰の無い宗教ちゃ無いです、金光大神だけです、罪もなからなければ、罰も無い世界を説いておられるのは、…… あるものは只、神愛だけなのです、もう本当にそれはね、もう本当に恐れ入ってしまうです、教祖金光大神の教えておられる事は。
教祖のお言葉の中に、こうゆう、安政四年十二月の二十四日
 かた、不幸を思い返され、御自身の様々な難儀を色々と感じられた。不幸を思い返されて、こう言っておられます。
 「天地金乃神様への御無礼を知らず、難儀致し、今般 天地金乃神様お知らせを下され有難し、」と神によって生きる感動にむせんでおられる。と有ります。
 天地金乃神様への御無礼を知らず難儀致し、今般天地金乃神様、お知らせ下され有難し。 様々な難儀をなさった、それをね、例えば罪とか罰とゆう事ではないとゆう事。
 御無礼を知らず難儀致し、今般天地金乃神様お知らせ下され、
どうゆう事をお知らせ下されたか、只お粗末 御無礼とゆう事は、例えば、こうゆう因縁、こうゆう罪を作っとるから、只々天地に対するところの、御無礼だけを説かれたです。
 天地に対するところの御無礼、それは御理解三節に見る事が出きる、日柄方位ばかり見てとか、氏子の家宅 お寺さんのお屋敷であろうが、お宮さんの屋敷であろうが、氏子の家屋敷であろうが、みんな神の地所、其の理知らず、 其の理を知らずに、天地に対して御無礼をしておる事だけが、前々のめぐりで難を受け居る。
 そこでゝす、その前々のめぐりとゆう事が、例えば因縁といったものとは、さらさら違う、もうこゝには天地金乃神様が、親神様であるとゆう事を、詫びれば許してやりたいのが親心、そこんところを金光教的に言うと、お試しを下され、お気付を下され、とゆう事になってくるです、罪とか罰と言う事じゃないです。
 信心に身が入ってくると、神様のお試しがありますぞと言う、それは、お試しとゆう事は、難儀な問題とゆう事でもありましょう、苦しいとゆう事でもありましょう、けれどもそれは、罰を当てるのではなくてヾす、より一段信心を進める為に、試験が有り、お試しが有るのである、そうゆう言わば、事なのである。
 大宗教と言われる宗教程です、人間の弱点をついて、その弱点で動かす事の出きない難儀を、却って背負わせるとゆうようなところが有るです。
 人間ではどうにも仕様のない事、その仕様のない事を、何とか、かんとか、云うなら理屈をつけてヾす、こうゆうお粗末、御無礼があるから、お前達は難儀をするのだ、罰を、ある場合は仏罰と云いある場合はそれを、罪と云い、罰と云い
 金光大神はね、そうゆう事ではさらさらないです、そこに難儀があってもです、それは私共が天地に対する、天地金乃神様、お知らせを下され、どうゆうお知らせを下されたかと云うと、今迄の、只天地に対するところの思い違い、考え違いが、前々のめぐりで難を受け居る、それがたまりたまって難儀になっておる。
その難儀とてもです、もう詫びれば許してやりたいのが親心と説いてある、今日から例えば改まって、その事のお礼が申し上げられるお詫びが出きる事になったら、即刻解放される。
 又はね、おかげは和賀心に有り、もう自分の心ひとつに有る、要心せよ、わが心の鬼が我身を責めるぞ。
 自分の心でゝす、我身を生かす事も出きれば、殺す事にもなる、とゆう説き方なんです。罪の為苦しむのじゃないです、罰をかぶっとるとじゃないです、我心の鬼が我身を責めるのであり、同じ例えば事柄であっても、難儀なそれをです、自分の心で生かす事もあれば、殺す事もある、もう自分の心次第でゝす、それをおかげにしてゆく事の出きれる道なんです。
 もうこの辺も説きだしたら、もう何と云うですか、もう偉大さとゆう事はもう、只々驚いてしまいます、もうこれはね、キリスト教でも仏教でもです、人間の云うなら弱点をつかんでヾす、そして人間を、ごうぐっとるとゆう感じがしますよ、どうにも出きないところへ、追い込んでいってしまわれる、とゆう事です。
 人間じゃから、どこにお粗末、御無礼があるやら分らん、平にお許し下さい、とゆういき方で許されるものをです、お前がこうゆう事をしておるから、これが元罪、罪の元になっておる、だからこの罰は受けなければならない、と云うようなね、もう人間を苦しめる為の宗教のような、感じさえするです。
 もう、その辺のところを、そうゆう平易なと云うか、もう平凡な言葉で表現しておられる、例えば今日の六十九節のところなんかでもです、だから、教祖金光大神の云われる事には底が無いです、只おかげを頂いていく、人間が幸せになっていくだけの道なんです。それを、お前の心次第で、自分自身が苦しい事になっていきよるのぞ、お前の心の中の鬼が、お前を責めておるのぞ、だから、その心の中の鬼を、改まっていくとか、研いていく事だけは、教えておられますけれども、
 罪もなければ罰も無い、悪魔もおらなければ、サタンも無い、只有るものは御神慮だけ、御神愛だけ、只氏子可愛いゝの御一念だけですから氏子が、あゝ相済まん事であったと、只今の天地に対する御無礼の事なんかでもね、本当に知らん事とは云いながら、天地に寸金をような事を、云うたりしたりしておる事が、そのような御無礼になっておる事とするなら、今日只今から改まるとゆう事で、もう許される世界が、金光大神の世界です。
 ですから、私共頂く方の側がです、教祖様があゝ教えて下さってあるのだから、とゆう頂き方さえ出来れば、訳は分らんでもいゝのです、神様がサイダ-を飲むなと仰るけん、ハイと云うて飲まないだけの事、何故じゃろうかとゆう事を、まだお伺いした事もない。そこにね、限りないおかげの頂けれる、金光大神の世界がある。
 次から次と、教祖様が難儀をなさった、そこに天地金乃神様がお知らせを下され、その難儀から解放されなさった、そこが分かられたら、もうアッと云う間に、云うなら有難い世界だけが開けて来たそれ迄は罪を、矢張り感じられたり、又それを罰と感じられたかも分かりません。
 けれども、本当な事が分かって、天地金乃神様おしらせを下されどうゆうお知らせを下されたかと云うと、天地に対し無礼致しとゆう、云うならばそこだけを説いておられる、しかもそれが分かったところには、もう自由無碍な広々とした世界が有る訳なんです。
 もうこの辺のところを分からせて頂いたら、いわゆる金光大神の説かれておる世界の、限りない広さというか、深さというものは、限りがないです、そうゆうものをです、私は今日、七十九節から、又感じさせてもらいます。
 これは商売に対する、例えば売場買場を大事にせよとか、二銭目先は損のようであってもと、  たとえそれが損であってもです、例えばさっきも申しますように、人間が宣伝をやめたら、もう商品の売り上げに、すぐさしつかえる、それが人間の世界。
 ところが教祖金光大神の、例えば云われる事を、金光様があゝ教えて下さるから、ハイと云う気になれば、後はもう金光大神が、云うならば宣伝をして下さるとゆう事に、限りの無い世界に入ってゆけれる信心です。
 それでも、そんなら只々、棚からぼたもちのような事ばかりを、考えてはならない、体はちびれめものではないから、働けと仰っておられる。同時に商売をするなら、売場買場と云うて、売場買場を大事にせよと、いわゆる実意丁寧神信心を、こゝえ説いておられるそうゆう例えば、これはもう只唯一の、教祖金光大神の御教の中に商売に対する御教は、これ一つだとゆう風な頂き方を、今迄しておりましたけれども、これは商売人だけではない、金光大神の信心の偉大さを、訳は分らん程に、深い偉大さとゆうものを、こゝから私は今日感じました。
 そしてその事は、どうゆうような事であるかと云うたら、私が三年前に神様から頂いた、あれ程沢山のサイダ-を飲みよったのを、今日からはサイダ-を飲むなと仰ったから、その日を境に、もうサイダ-のサの字も云わない、そしてそのかわりにビ-ルを飲めと、他の飲み物はお許し下さってある。
 それはどうゆう訳か、訳は分らん、訳は分らんけれども、それを実行しておる、その実行しておるとゆう事がです、限りないおかげの、言わば世界につながっていく事である事を、思います。
 私共 金光様の信心させて頂く者は、愈です、もう日々、教祖生神金光大神を讃えるとゆう事、それは訳が分らんなりではなくてです、矢張り分からなければいけない、金光大神の説かれておる、その事の素晴らしい事、偉大な事、限りなく大きい事、深い事。
 これは成程、宗教革命が要るなあと思います。
もうお釈迦さんでもキリストでも、教祖金光大神の足元にもよらない事です。 もう全然反対の事を説いておられるです、罪とか罰で人間を苦しめる為にあるような宗教です。
 もうそれは私はあらためて、そこを思います、そして色々な、沢山な理屈をつけて、そうゆう事になっておる。
 金光大神はそこんところをです、成程、めぐりと云う言葉は、これだけ沢山な教典の中で、ひと所にしか使ってない、それは今云う御理解三節にです、前々のめぐりで難を受け居る。
 その前々のめぐりで難を受け居る、めぐりとゆう事は、天地に対するところの、御無礼とゆうところだけに、しぼっておられると云うか、その事だけしかないのである。
 天地に対し無礼致し、前々のめぐりで難を受け居る。
そこで金光大神に、天地金乃神様おしらせを下され、それ以来とゆうものはです、何のこだわりもない、何の障害もない、人間らしい生き方をさせて頂いて、天地の大恩を、愈深く分からせて頂いて、限りないおかげにつながってゆけれる道を、金光大神は説かれた。本当に金光大神讃歌とでも申しましょうか、そうゆう何か、もっともっと素晴らしい言葉でね、日々それを歌の上にでも表してゆける金光大神讃歌とゆうようなものが、当然出来なければならないとゆう事を、今日はしきりに感じました。         どうぞ。